4 December 2022

幾何学模様(Kikagaku Moyo)| Bandcamp Daily インタビュー

 



幾何学模様(Kikagaku Moyo)を初めて観たのは2014年吉祥寺のWARPだった。2013年から始まった東京サイケフェスもその頃にはもう国際的になっており、ブリスベンやインドネシアのバンドの面々が出番を終え客席から他バンドを盛り上げる等、本当に楽しそうで若さが眩しかったのを覚えている。

そんなわけで2022年12月3日のファイナルショーが終わってしまい、(きっとまた戻ってくるという予感はありつつ)幾何学模様の残したレガシーについてずっと考えている。目黒パーシモンホールのMCで桂田氏は「僕たちは自分でレーベルをやって、自分でマネジメントをやって、この場で一緒に時間を共有するところまで出来たっていうのが僕らの財産かなと思います」とコメントしていた。海外進出するバンドは数あれど、幾何学模様は自主レーベルでツアーのロジ周りからマーチのデザインまですべてDIYでやってのけた唯一無二の日本のバンドと言ってよいはずだ。

今回選んだBandcamp Dailyのインタビューでは、彼らがなぜ自主レーベルから3作目をリリースすることになったのか等、幾何学模様の苦難の歴史についても触れられているので、彼らの残したレガシーとして後に続く日本のバンドのためにも翻訳しておくことにする。

【元ネタ英語記事】A Farewell to Kikagaku Moyo, Psych Lords of Japan(2022年8月9日)

以下、当サイトによる翻訳


10年前バンドを始めた頃に決めた目標のことを幾何学模様(Kikagaku Moyo)のメンバーは覚えている。世界を見て回り、オースティンサイケフェス(※現レヴィテーション(Levitation))のようなサイケデリックロックのイベントでプレイしたいと考えていたのだ。

「で、気付いたんです。やりたかったことはほぼ全て実現させたって。いや実際、それ以上ですね」アムステルダムの自宅からビデオチャットで繋いだドラマーのGo Kurosawaが言う。

「アメリカのバンドって大体『ビッグになれ、成長しろ!ハイ次!前進あるのみ、絶対止まるな、終わっちゃダメだ」みたいな感じですよね」ギタリストのTomo Katsuradaが、同じくアムステルダムの自宅から笑いながら付け加えた。「そういうのすごく資本主義的だと思うんです。どうして終わりにして新しいことができないのか?って」

それはまさに幾何学模様が5枚目にしてファイナルとなるアルバム<Kumoyo Island(クモヨ島)>(2022年5月に自主レーベル<Guruguru Brain>からリリース済) のレコーディングの最中に決めたことだった。決して妥協を許さないバンドの姿勢によって、幾何学模様の5人(Katsurada、Kurosawa、Kurosawaの弟Ryu、Kotsu Guy、Daoud Popal)は、この10年で東京のアンダーグラウンドロックシーンを代表する世界的存在に成長した。幾何学模様は、スモーキーなフォークジャム、静かに燃え上がる壮大なシタールの世界観、そして波のように押し寄せる反響の中繰り広げられる激しいロックのライブ空間を創出してきた。

「あぁ、ひとつの事をやり遂げたなって感覚が僕らにはあったんです。だから『OK、次は何か違うことをしよう』ってなるのは自然なことなんです」Kurosawaは語る。

二人がBandcamp Dailyの取材に応じたのは、グラストンベリーフェスティバルのウエストホルツステージ(※2022年6月25日)でのセットを含め、彼らにとって最後となるヨーロッパツアーを終えた数日後だった。「ウエストホルツステージ史上、最高のレコードセールスを記録したって言われたんですよ今回の大陸横断ファイナルツアーでの最も特別な思い出としてKatsuradaが語ってくれた。それをDIY的なオペレーションでやってのけたことにもプライドを持っている。

「アムステルダムでのライブ(※2022年6月22日)はヨーロッパツアーのループ(輪)が閉じたって感じがした」とKurosawaは言う。「ヨーロッパで演った最初のライブがオランダだったし、それが僕らの始まりだったから」

幾何学模様には、この秋の最後の北米ツアー(※2022年9月14日~)を目前に控え、まだ一連のライブが残っている。その後バンドは終焉を迎えるが、彼らの創り上げた新たな表現方法を探索するのは誰にでも可能だ。幾何学模様が21世紀のサイケデリックロック最強のディスコグラフィーを完成させたバンドの一つであることを考えれば、それは我々に与えられた正当な機会でもある。




Kikagaku Moyo


KatsuradaとKurosawaの出会いは、Katsuradaがポートランドでの留学から東京へ戻ってきて間もない頃だった。「Go君の出身地、高田馬場(東京)の共通の友人が多かったし、僕は近くの早稲田大学の学生だったんです」Katsuradaが語る。「Go君の小学校や中学の友達が作ったスケーターグループに僕もいたんです」二人は音楽や映画、食べ物を通じて意気投合し、膨大な時間を共に過ごすことになる。

「海外とコミュニケーションできる日本人が自分らの周りにあまりいなかったんです。結構言葉の壁ってありますし、日本から出て生活した経験がないと世界はとても閉鎖的に見えてしまう」とKatsuradaは言う。「全部日本でやらなきゃ、みたいなね。だけど選択肢はたくさんあるわけだし、僕らはいろいろとアイディアを出し合っていました」

二人は自分たちの持つエネルギーに気付いて音楽をやってみることになるのだが、Kurosawaによると、ただひとつ問題があり、それは二人ともあまり楽器の演奏の仕方を知らなかったことだという。Kurosawa曰く「ドラムの叩き方も分からなかった」そうで、Katsuradaは初期の自分たちを ”高校の前座バンド” に例えた。

その後すぐ他のメンバーをバンドに引き入れてライブ活動を開始。テクニック不足を自称する彼らであったがアイディアは豊富にあり、ジャムセッションをしまくってどんなサウンドを出したいのか、歌に対するアプローチはどうすべきか考えるのに多くの時間を費やした。「特にはっきりとした歌詞を歌う必要はないと思ったんです。歌詞をメロディーとして使うか、感情を込めた楽器にすればいいって」そう語るKatsuradaは、自分が日本育ちで何を言っているか全く分からないままミッシー・エリオット(Missy Elliott)を聞いていたことを例に挙げた。

「最初のレコードはほとんどデモみたいなものだった」Kurosawaは2013年のデビュー作であるセルフタイトルアルバムについてそう語った。「ムーン・デュオ(Moon Duo)のオープニングアクトをやった時、人に配れるものを何か録音しろって言われたんです。ただライブをやりまくるだけじゃ何もならないって」その結果リリースされた作品は、畳み掛けるようなスピード感のあるロック("Zo No Senaka")、フォークサウンドの断片("Lazy Stoned Monk")等、その後10年に渡り彼らが応用することになるサウンドの原型を模索したものとなった。技術的な習熟度に比較的欠ける点が特に障害となることもなく、むしろ自由な実験を可能にする強みにさえなっていた。

技術的に優れていないと彼らは言ったかもしれないが、それは自分たちのサウンドを広く知らしめる可能性を広げたに他ならなかった。


Forest Of Lost Children


幾何学模様は都内各所でライブ活動を続け、日本では一般的なノルマ制(Pay-to-Play)にこだわらない小規模なヴェニューを中心に活動していた(時々、路上ライブも)。だが、5ピースのこのバンドは海外ツアーをスタートさせたいと目論んでいた。

世界ツアーをやるにはアルバム1枚作る必要があるって分かったんです」Katsuradaは笑いながら2枚目のアルバム<Forest of Lost Children>を制作した経緯について説明した。「急いでたのは僕らの方だったんです」(※別インタビューによると、オースティンサイケフェスへの出演(2014年5月)が決まったので急いでセカンドアルバムを制作したとのこと)

2枚目のフルアルバムは、制作に要した超特急のスピードにもかかわらず、彼らの持つコンセプチュアルな衝動と世界中から受けた多種多様な影響が見てとれる作品となっている。「ある部族が住んでる架空の島からの音楽…的なのを作りたかったんです。"Street of Calcutta” とか、いろんなサウンドをミックスしました」とKatsuradaは語る。曲の多くはデビュー当時に書かれたものだったが <Forest of Lost Children> で見事に融合し、そのハイライトとなったのは変幻自在のサイケデリックロック ”Smoke and Mirrors” であった。

あるレーベルがバンドのバックアップに興味を示したため意気込んで本作を送ってみたところ、「レーベル全員が『ダメだ、気に入らない』って言ってきて、結局契約できなかった!」とKatsuradaが語る。それでも世界への野望を叶えるべく、幾何学模様はニューヨークの小規模レーベル<Beyond Beyond Is Beyond Records>を見つけ、この作品をリリースした。このこともあり、バンドの夢の舞台のひとつである2014年のオースティンサイケフェスへの出演をはじめ、アメリカでのライブの数々が実現した。本国日本では未だニッチな存在であったにもかかわらず、幾何学模様は瞑想的で幻覚をもたらす音楽でその名を轟かせ始めていた。





House In The Tall Grass


どのような注目を幾何学模様が集め続けていようと、彼らのレーベルに関する欲求不満がそれに影を落としていた。「3枚目のアルバムでレコードレーベルと契約するのを僕らは心待ちにしてたんです。なのに誰も興味を持ってくれなかった」Katsuradaは後に<House in the Tall Grass>となるアルバムについてそう語った。「皆んな『It's not my cup of tea(好みじゃない)』って言うんです。Facebookのメッセンジャーで何度見たことか。『好みじゃない、好みじゃない…』」

「それで自分たちでリリースしてみようってことになったんです」彼はそう結んだ。

2016年までには、既にKatsuradaとKurosawaは自主レーベル<Guruguru Grain>を立ち上げていたのだが、そのきっかけとなったのが渋谷のルビールーム(Ruby Room)というヴェニューで定期開催していたパーティー(※東京サイケフェスのこと)だった。このイベントに出演していたサイケデリックなアーティストを集めたコンピレーションアルバムの制作を決め、2014年レーベル第1弾としてリリースしたのだ。彼らのレーベルはすぐ、シベールの日曜日(Sundays & Cybele)、クラウトロックにインスパイアされた南ドイツ(Minami Deustch)といった日本のサイケデリックロックに加え、アジア各国のバンドの音楽にスポットを当てる場となった。

「(自主レーベルを)始めた当初は、セルフリリースは考えてなくて、バンドとは別物だった」とKurosawaは言う。「でもレーベルが見つからなかったとき、自ずと自分たちでやることになったんです。他に選択肢がなかったから」

<House in the Tall Grass>は二人にとって重要な作品となった。仕事を終えてスタジオに向かい、2,3時間かけて制作し、帰りの電車でラフミックスを聴く。そんなアルバムの制作過程をKurosawaは誰よりもよく覚えているという。

「その時点でやっと、前よりずっと多くの海外ツアーができるようになっていました。その頃ですね。バンドを皆んなにとって経済的に安定したものにして、他のレーベルに頼らなくてもやっていけると悟ったのは。<House in the Tall Grass>は、すべてDIYでやるって決めたときのアルバムなんです」そう語るKatsuradaは本作のレコーディングで自分のソングライティングのスキルが上がったと感じたという。

このアルバムは国際的に評価される幾何学模様の始まりを告げた作品である。デモやその他諸々に対するレーベルの反応など気にせず好きなことが自由にやれるのだ。「バンドのメンバー5人がいいと思えば、もう何も話す必要はない。フィルターは一切ないんです」Kurosawaは言う。これ以降、幾何学模様はEP、コラボレーション、フルアルバムの全てを自分たちの思い通りの形でリリースすることになる。


Kumoyo Island


幾何学模様のアルバムの多くは、ツアー先でのジャムセッションや巡業中の思い出からメンバーがインスピレーションを得て生み出されたものである。だが新型コロナウイルスのせいで、そんなクリエィティブなパイプラインが断たれてしまった。

「ツアーができなかったので、一緒に演奏するとしたらどうやるだろうって全部想像して生まれたアルバムなんです」とKatsuradaは言う。「おそらく曲の半分はリモートで作曲したものじゃないかな」

以前のアルバムとは異なり<Kumoyo Island>は、Kurosawaが "宅録感覚" と呼ぶものを特徴とした作品となっている。世界情勢がもたらした制限のおかげで、各メンバーが作曲に時間をかけることができたのがその理由である。「一緒に演ったらどんなサウンドになるだろうって想像する必要はあったんですが、各メンバーが実験的なことをすることもできたし、いい感じにメンバー5人のバランスが取れたんです。そういうのが透けて見える作品になってると思います」

「でも最終的にはバンドサウンドっぽい音になってるから満足してます」Katsuradaは言う。「僕らって本当によく一緒にツアーしてライブをやりまくってるから、自宅で曲作りをしてもバンド的なものになるんです」




アルバムを完成させるためにメンバー全員1ヶ月間東京に戻り、バンドをスタートさせたときと同じレコーディングスタジオ(※ツバメスタジオのこと)で最後のアルバムを録音した。おかげでいつもより自由な感じでセッションできたという。「快適でしたよ。スタジオも知ってるし、サウンドエンジニアも知り合いだし。失敗してもいいし試行錯誤だってできる」Katsuradaは語る。

<Kumoyo Island>はこれまでで最も意外性のある作品であり、バンドのサイケデリックな側面を、ファンク(”Dancing Blue”)や癒しの音の風景(”Daydream Soda”)と融合させたものとなっている。”Cardboard Pile” のようなファズを効かせたロックからラストを飾る ”Maison Silk Road” のシタールの瞑想まで、幾何学模様の全キャリアの音楽スタイルがよく現れている。彼らの日本人としてのルーツは、オープニング曲  ”Monaka” によりはっきりと見て取れるが、この曲はKatsurada曰く、石川県の「あまり豪華とは言えない」温泉地(※加賀温泉のこと)やスキーリゾートで育った子供の頃、彼がよく聞いた民謡を取り入れたものである。

このアルバムはバンドにふさわしい最終作であり、KatsuradaとKurosawaは本作を「二人にとって今、最も意味のあるアルバム」と自負している。

一連のファイナルツアーが終われば、二人は<Guruguru Brain>に注力することになり、今後たくさんのリリースが予定されている(同時に二人は、バンドメンバーに送金する等、幾何学模様に関するあらゆる事務作業もこなさなければならない。これは彼らがバンドの権利関係の全てを所有しているからである)。また二人はこれからも個人、場合によっては新たな編成で音楽活動を続けていくようだ。でもまずは、しばしのお別れである。

Katsuradaは今回のフェアウェルツアーについて「とても楽しんでいます。かなり感情的にはなるけど」「これまで音楽をやっていて最高の経験です」と語った。



◆あわせて読みたい当サイト幾何学模様(Kikagaku Moyo)記事: